中央官庁等の行政機関は、罰則に基づいた業務権限を持っている。
だから検査を受けるときには強制力があり、検査に不合格となるわけには行かないのである。
検査の目的は日常的に、合格の状態を保っていることの確認であり、合格の基準に達しないものは頑張って基準を満たすべき実力をつけるべく努力する。しかし最初から合格基準に到底満たない場合は、合格するためには検査官を欺かなければ、合格することは無い。
法律に関しても、違反行為を定義して、罰則規定を設けることにより、違反行為を事前に抑制したり、違反行為があった時の事後処理の基準を明確にしている。
つまり本来、行政機関(お上)は、人間は悪であり、その悪を取り締まることにより、人間の社会秩序を保つことが出来るという立場を取っている。
一方、法廷などにおける弁護という活動は、弁護の依頼者に対して、全面的に善であるという前提で行う活動である。・・・一般の社会活動としては特殊な活動である。
そして大多数の我々一般庶民の日常は、人を信じ、時に良い結果を得て、時に裏切られるという事を繰り返している。・・・そしてしばしば最初から人を疑い、もしくは相手にしないという事を繰り返す。
人を『信頼』するという行為は、『信じ』、『疑う』という事の日常のせめぎ合いの中から、徐々に構築することが出来、一瞬にして失うことも出来る。
そして時として人は、自分の人生は、他人からの『信頼』を得る、増やすことが人生であると信じ、これまでに得られた信頼を糧に人生を渡っていくのだと信じてしまう人もいる。
今回の『事故米』事件、性善説を主張する公の立場での役人がいるというのも、滑稽である。
しかし法律で罰せられる『三笠フーズ』などの悪人でさえも、これほど社会的に迷惑をかけうる人が多数出現することを想定して、一般消費者に毒を盛った。そして本来『三笠フーズ』などの悪人を信頼していた中間の流通業者、酒や菓子や食材を製造者を偽ることにより片棒を担がせ、責任を一端を背負わせた。そして不特定多数の人たちの不利益の見返りに、自分らだけが『事故米』を食用と偽って販売し不当な利益を上げた。
幸いなことに、その毒は現時点では人命を奪うほどの濃さではなかったようである。しかし本来被害者の一人である、奈良県の流通業者の尊い人命を奪った事実は、余りに残酷であり、残念なことである!!