35a4b204.JPG この二つの件に関しては、確かにここのところ話題にされることが多い!

 異常気象に関しては、ブログの中で今までも述べてきたとおり、地球温暖化と関連して今までとは違う気象となりつつあるという点では、客観的に見て十分希少であった筈の天候が頻発しているというのは事実である!

 通り魔事件に関しては、本当に最近増えてきているのであろうか?
 その報道における重要な点は、通り魔事件の定義を一昔前と比べて、同じ条件で分類できているか??という疑問がある。

 確かに通り魔事件と称される犯罪を犯した人たちのバックグラウンド(社会的背景)は報じられているところを聞くと、特異なものを感じたりもする。
 しかし一方で、どこにでも同様の背景の人は多数存在するようにも思えてしょうがない。

 ちょっと抽象的な表現であるが、個々の犯罪において、犯罪を犯すという点では当然処罰の対象となるべき酷いことを起こしている。そこで問題となるのは、犯人は処罰の対象となる精神性の持ち主かどうかである
 ・・・精神を不幸にしてわずらってしまった人の犯罪を執拗に報じることは厳に慎むべきである!
 しかし例え精神性に問題が無いと判断される犯人であったとしても、犯罪を犯していない我々同様錯覚に陥ってしまっている可能性があるのは、テレビやラジオ、インターネットといった商業主義に立脚したマスコミにおける話題性が、この世の中における価値観の基準であるという誤解!
 ・・・「マスコミで目立つこと=価値観の高いこと」
    ・・・良いことで話題になるというのは確かに価値観の高いことのようである。しかし犯罪など反社会的なこと、非人道的なことで話題になるという事は、本来最も低い価値観のものであるという判断が出来ずに犯してしまった犯罪である可能性はないだろうか??
 ニュースを介する商業主義では、注目を集めるニュースを配信する事に関連して、いわゆるコマーシャルとして同時に配信するものの商業主義に立脚した付加価値を与えることを当然の経済活動としている
 ・・・例えばニュースのスポンサーの商品を宣伝すること、その効果はニュースに関しては事件性が高いときにも衆目を集める効果が高くなるという点で、悪い犯罪のニュースであっても、その内容には関係なく、そのニュースの金銭的、商業主義的価値観は上昇する!
 それを持って、「マスコミに取り上げられる犯罪=価値観のある犯罪??」という、短絡的な思考を持って、我々は犯罪を捉えていないだろうか?
 ・・・当然であるが、これは誤解、誤認である!!

 一方配信するマスコミ側としても、明らかに犯人が処罰の対象となる精神性を維持できていない犯罪に関しても、執拗に「通り魔」「虐待」「いじめ」等々の衆目を集めるお決まりのタイトルをつける、もしくはそのジャンルに入る事件であると曲解して、報道し、衆目を集め、商業主義的効率を上げようとしていないだろうか??
 ・・・これはニュースというジャーナリズムの振りをして、マスコミとしての機能を悪用した行為
    ・・・時としてこの行為すらも処罰の対象となるのではないかと私は考える!!
 その報道には、「新たな同様の犯罪=価値観のある犯罪」という、短絡した図式を判断が曖昧な人に植え付ける効果があり、同様の犯罪を誘発させてしまう効果(アジテーション、プロパガンダ)がある!!

 人間の人生、しっかり渡っていくのは大抵の場合大変なことである。
 何かを利用して付加価値をつけて、その付加価値で自分の生活を潤わせたいと考えるのは人の日常生活の常であり、業であるという事は十分に理解している自分がいる。
 しかし我々皆で、少しでも多くのフェアプレーに溢れた人生を構築していけたらと切に願う自分がいる!